こんにちは。岩本博義です。
私はショー専門のバーテンダーとして10年活動しています。
実はその前に、京都・宇治田原でお茶摘みをやっていました。
きっかけはこうです。
大学時代にスキーにはまり、当時スキーにハマっている人たちの中での人気バイトとして「道路のライン引き」「さおだけ屋」、そして「お茶摘み」がありました。
すべて雪が溶けてから仕事が始まり、夏前には仕事が終了するバイトでした。スキーにハマっている他の人たちはそれで稼いだお金で夏は南半球に滑りに行っていたんです。もうなくなったんでしょうか、「スキーバム」と呼ばれる人たちです。
私は南半球にスキーに行きませんでしたが、お茶摘みはやってみたいと思いました。
北海道で出会った人たちは静岡に行くといっていましたが、私は地元京都に茶畑があるのは知っていました。
そう、宇治茶ですね。
平安時代からその歴史が始まり、お茶と言えば宇治茶のことを指していた私はたまに車で通る道に茶畑が広がっているので、そこの農協(JA)に電話したらどこか紹介してもらえるだろうと思ったんです。
早速電話したら「紹介はしていない」との返事。
代わりに役場に電話してみたらと伝えられ、役場に「農協から紹介されたのですが」としれっというと「並木さんところに連絡してみたら?番号は○○」とのこと。
すぐに並木さんに電話すると「今から来てくれ」と。
ちょうどゴールデンウィーク中でお茶摘みの真っ最中。
それから玉露という言葉も知らずに玉露農家の手伝いが始まりました。
たまたま、並木さんが茶名人と呼ばれる人で、当時60代後半。
息子さんも2人いらっしゃるのですが、他の仕事をしていてその当時はその茶名人と私で作業をする事がほとんどでした。私は並木さんの事を「おやっさん」と呼び、息子のようにかわいがってもらいました。
はじめはお茶摘みの時期だけ手伝っていたのですが、
そのうち肥料やりなどの畑の管理も手伝うようになって。
苗木を作る挿し木もよくやりました。
居心地がよく気がつくと7~8年が過ぎました。
お茶摘みをしながらフレアを始めて、世界大会に出るようになり、
大会後はまた茶畑で作業をするという毎日。
そのうち、大会で結果が出るようになって、ショーを頼まれるようになり、ショーの仕事が増えてきて、
やがてショー専門のバーテンダーとして活動するようになり、茶畑から遠ざかっていました。
でも、ずっとやりたかったことがあるんです。
それは、日本茶でショーをすること。
フレアバーテンダーとしてカクテルだけじゃなく、日本茶やコーヒーなど飲料全てをショーアップしたい。
これが私のフレアバーテンダーとして目指す方向性です。
ただ、フレアバーテンダーが遊びでやりました、というのはちょっと違う。
どうせやるならしっかり勉強して本当に美味しいものを提供したい。
ということで日本茶インストラクターの勉強を始めました。
日本茶インストラクターはなかなか難しい試験です。
私は玉露の栽培・製造の知識や経験が多少あったので簡単だろうって思っていましたが、歴史や科学など覚えることが多岐にわたり、久しぶりに猛勉強しました。
で、運よく合格しました(笑)。
実際日本茶インストラクター資格を取得した事で、一般の人よりもお茶業界の人に「真面目に勉強しているんだな」というメッセージは伝わってます。もちろん、これからもずっと勉強ですが。
資格を取ったことで今年、10年ぶりにお茶摘みに行きました。
10年ぶりでしたが摘み子さんたちは変わってない(笑)。
10年経ってもパワフルで、茶畑の中でわいわいやってます。
ただ、10年経って大きく変わったことがありました。
それは、玉露が売れなくなったこと。
とくに手摘みの高級な玉露の需要がどんと減ったと聞かされました。
なんとかしないとそのうち飲めなくなる。
美味しいのに、知られてないだけじゃないのか?
もっと知られるにはどうすればいいのか?
自分に出来る事。自分がやりたい事。
ここで一致したんです。
なので日本茶ショーをする理由が明確になりました。
プロのフレアバーテンダーで日本茶インストラクター、お茶も昔作っていた人間がする日本茶ショー。
本質は美味しいお茶を、美味しく飲んでもらいたい。
そのために目の前でパフォーマンスをする。
そして興味を持ってもらい、とにかく一度飲んでもらう機会を増やす。
その上で、「美味しい、もっと飲みたい」と感じてもらう人が一人でも増えるように。
まずは玉露を頑張ってアピールするぞ!
日本茶やカクテルの研究を続ける事で常にクオリティの高いドリンクをショーで作れるようにしています。
その研究記録はこちら→COCKTAIL BIYORI【カクテル日和】
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